相撲中継を見ていて気になった。
この2人・・・
どこか似ている・・・
ただそれだけ・・・(笑)
以前「はっけよい」はもともとヘブライ語!?というメルマガを書いたことがあるのですが、相撲大好き芸人として毎日のように弥彦村に通っていました。
ダワーニャミーン・ビャンバドルジ。これを聞いてピンとくる人はすごい。何やら怪しい呪文のようだが、大相撲名古屋場所にて優勝したモンゴル出身、横綱日馬富士関の本名である。
僕は場所前に大関稀勢の里関と個人的に約束をしていたことがあったので少し残念だった。男同志の約束は秋場所に持ち越しである。
それにしてもここ数年、ワールドワイドな番付が続いている。ブルガリア、ブラジル、ジョージア、中国、チェコ、カザフスタン、ハンガリー、ロシア…大砂嵐というエジプト出身の関取まで誕生した。
宗教上、稽古の合間を縫って1日5回のお祈りは欠かさず、食事では豚肉のちゃんこは食べられないらしい。僕もイスラム系の友だちがいたので間近で見てきたが、彼らは7月下旬から約1カ月間ラマダンという断食の期間に入る。余計なお世話かもしれないが、名古屋場所と日程が重なるのがものすごく心配だ。
さて、今回は1歩外に出てみたときの日本の文化に対する新鮮な反応がおもしろかった相撲について書きたいと思う。
僕がニュージーランドの語学学校に通っていたとき、学園祭で各国の生徒が母国の文化発表をすることになった。日本チームのリーダーを任された僕は大好きな相撲を披露することにした。
髷のカツラを付けてステージに登場すると、場内からはサムライコールが飛び交った。相撲の認知度が低かったので、まずは説明をかねて大相撲の映像を見てもらった。
すると驚いたことに何人かの女性が目を被っていた。当たり前に思っていたまわし姿だが、彼女たちからすると裸、しかもお尻を出していることが信じられないらしい。
また、「レフェリーばかりオシャレしてズルい」という意見や「塩がもったいない」「睨んでばかりで始まらない」「ファイトマネーをキャッシュで渡すの?」と様々な声が聞かれた。
職場でも、教育現場でも、家族間でもあることだが、ついつい狭い中にいることで、当たり前の疑問を「そういうものだ」で片づけていた自分にハッとした。
さぁいよいよ実践。日本人が少なかったため僕とサトルさんという65歳のおじさんが戦うことに。「立ち会いは強く当たって流れでお願いします」僕たちは八百長力士ばりに入念な打ち合わせを重ねた。
「はっけよーいのこった!」。高見盛関のモノマネをする僕にサトルさんが勝利し場内は大いに盛り上がった。
我も我もと飛び入り参加者が出てきたほどだ。「四股名の多くは出身地にちなんだものや川とか山を付けます」と説明。中にはブラジル出身のアマゾン川がフランス出身のモンブランを押し出すという壮大な一番も行われた。
僕が日本を離れていた間に各界は横綱の暴力事件や野球賭博など大きく変化していた。これでは国技というより国疑だ。
暗いご時世だからこそ、もっと明かりを灯していってもらいたい。
相撲は蛍光灯。どちらもニホンのデントウなのです。
元マネージャー樋口の息子盾(じゅん)君を連れて行って、朝稽古後の横綱に抱っこしてもらいました。
普段泣かないのに大号泣。
冷静に考えると、汗かいた裸の大きいモンゴル人のおじさんに抱っこされたらそりゃ泣くわな…(笑)
つい先ほどの出来事。この原稿を書こうと近所のコーヒー店に行ったところ、外国人のお客さんがレジで手間取っていた。「ジャパン1つ」の注文。「日本茶はおいてないのですが…」と店員。指さすメニューを見てようやく事態を飲み込んだ僕は「日本のコーヒーじゃなくて、本日のコーヒーですよ」と助言した。
ちなみに本日のコーヒーはグアテマラ。今からちょうど4年前に教育現場の視察の一環で何人かの日本人とともにグアテマラのエミリオアレナスカタラン小学校というところにおじゃましたことを思い出した。
お世辞にもきれいとは言えない建物で、全体的に暗い感じがした。
地震が多いという土地柄から1階建てで廊下はなく、教室の入り口は左右両方にあり、どちらからも外に出られるようになっていた。狭いというよりは窮屈といった造りだ。
校長先生とお話させていただいたのだが、 印象的だったのは、この地域では子どもの数に対して学校の数が少ないため、小さな校舎を午前と午後で生徒が入れ替わるということだ。日本では考えられないが、午前と午後で校長先生も学校名も変わるそうだ。
当然のことながら授業数は少ない。音楽や体育、図工といった科目、偶然にも僕が学生時代好きだった授業から順に減らされていくそうだ。
僕たちにコーヒーではなく来客用(?)のジュースが出された。
うらやましそうな生徒たちの顔が窓の外からのぞきこむ。こちらでは特別なときにしかお目にかかれない贅沢品のようだ。
毒々しい色をしており、見た目では何のジュースかわからない。
恐る恐る口に運んでみたが、 飲んでみても何のジュースかわからなかった。隣の日本人は露骨に嫌な顔をし、文句をたれた。そのときの用意してくれた人の残念そうな顔、また、何で残すんだろうという子どもたちの不思議そうな表情は忘れられない。
僕はこのとき決めた。常に感謝の気持ちは持ち続けたいと。もてなしが空振ること、こういったことは今後もある。アフリカに行けばごちそうとして虫を出されたりもする。「まずい」と言うのと「僕には合わない」と思うのとでは全く違う。
旅人は小さな国交を繰り返す。大げさだけど、われわれが彼らにとっての日本なんだ。そんなことを思った。